そうでないから


「義封」
「はい」

すぐに返事をする。振り返らなくてもわかる。
なんど呼ばれたかわからない名だ。

それに、義封、と呼ぶのは父と叔武どのだけ。

特別な感情など持っていない。
ずっとそう思っている。上司と部下。それだけだ。
これからもずっとそうだ。変わらない。

それなのに、どうして私は唇を噛んでしまうのだろう。


「今度の戦の布陣について話したいことが数点ある」
「ここでは済みませんか?」


やっと振り返り、孫桓の顔を見る。失礼な行為だとは思う。
けれど、孫桓は何も思っていないだろう。上司と部下。
それ以上に友人。友人だと思っているだろうか。

これ以上長く顔をみていると混乱してしまう。


「今宵、丁度陸遜どのも邸に呼んでいる。共に話を進めたい。だめか」


伯言どのも一緒。


良かった。二人きりではない。しかし少し寂しくもあった。
いつからこんなに意識するようになっただろう。

あれだ。二人で夷陵城の守備にあたったとき。
孤城していたあの夜のせいだ。あの時は混乱していた。酒も入っていた。思い出したくもない。
あのときはまだ、上司と部下だったというのに。


「今日は丁度晴れて月も見えるだろう。
 少量の酒も用意させてある。たまには語るのも…」


朱然の顔色が青くなった。今にも震え出しそうな程。


「…酒は嫌か」
「あなたと飲むのは嫌です」


孫桓は目を閉じた。
朱然は覚えている。
嫌われたかと思った。だが、そんな様子は見られなかった。
翌日からは普通に、しかし少し打ち溶けたと思っていたのに。
割り切れた、というのは見当違いか。


「では、話だけでも参加して欲しい」
「…そのあと、伯言どのと飲まれるのですか」


心の中のもやもやは濃くなった。
酒が入れば、もしかしたら、二の舞。
そして私は?もう何がなんだかわからない。

朱然の表情を察し、孫桓は溜息をついた。


「わかった。今日は酒はやめよう。たまにはそんな日もあっていい」
「叔武どの」


朱然は目を閉じたまま、眉間に皺を寄せている。
それから、泣きそうな目で、こちらを睨んだ。


「あなたが伯言どのを慕っていらっしゃるのは存じております
。  私も応援したいと思っております。ひとりの友人として」
「何だ、突然」
「ですが、私はあの夜、あなたがなされたことを忘れられません。
 私は!…私は」
「もう良い」
「…わたしは、あなたに好かれてみたかった。…それだけです」


ついに朱然の目から涙が流れた。
孫桓はどうしていいのかわからずに、目の前に立っていたが、
勝手に手が伸びていった。涙がその手に触れると朱然は嫌がって首を振った。
涙を、朱然を隠すように、孫桓は二本の腕で、朱然の頭を囲った。



不毛だ、どの恋も、叶わない。