陸議


別に君のことが好きだったから僕は結婚したのではないよ。
上司の奥方が是非僕にというから建前だけで君をもらった。
僕は居場所が欲しかった。
確立した僕の初めての居場所が君だった。


「母上が泣いていましたよ」


のどかな昼過ぎ。
執務室の中に入ってきたと思ったら挨拶もなしに息子は言った。
何か用事でもあるのかと思えば、仕事をしに来たのではないのか。
いくら親子とはいえ仕事中…とはいえ、その息子、陸抗の表情から察すると
たまにしか帰ってこないから父と話せない、と言いたいのがよくわかる。


「おや、それはどうして?抗が悪いことしたの」
「たまには邸宅に帰ったらいかがですか」


ほーら、当たった。
予想通りの展開に苦笑しつつ、しかしどうともならない問題であるので
しばし自分の中で考えながら「仕事中だよ」と、口元を人差し指で示しながら言った。
帰れないのは仕方がないのだ。仕事が詰まっているから。事実である。


「そんなに帰ってきて欲しいのかなぁ〜」
「そりゃ、父上が仕事だけを頑張っているなら母上も応援してくれるでしょうけど」
「うん?どういうこと」
「父上が恋多き人間だから心配しているのですよ」
「抗にそんなこというの…」


息子に不倫が何たらと愚痴をこぼしている妻に多少呆れながらも
完全否定はできないために、どうしたものかと陸遜は筆を置いて腕を組んだ。
つまらない心配をする。一人の人間だけを好きでい続けるのは不可能だ。
とりあえず自分は。他の誰かがそうではないとかは知ったことではない。
立場上離縁などありえないというのに、何を心配しているのだろう。


「でも抗。心配しなくても父上は母上と別れたりしないからね!」
「わかってます。理由がないですから。しかし父上…」
「なぁに」
「母上のことが好きではないのですか?」


複雑そうな表情をして陸抗は言う。きっと心配している。
夫婦が愛し合って生まれた子供ではないのではないかと思っている。
政略だけで作られる子供もいるというのに。
きっとそれは、父と母の愛情を惜しむことなく注がれて育った子供だから。
その分優しく育ったから。彼の大好きな両親だから。信じたいから。


「何言ってるの」
「ですが…」
「確かに君の母上が好きで結婚したわけじゃないけど」
「…」
「今、この世で僕が愛しているのは君と君の母上だよ」


驚いた顔をする。そんな陸抗の表情は母親そっくりだ。
自分のような人間にならなくて良かったと思う。
素直に正直に育ったのは、自分がいないときにも妻が愛情を注いでくれていたから。
将来は周囲の協力をうまく得ながら、立派な将へと成長できるだろう。
優しさをたくさんもらったのだから、優しい人間になれる、きっと。

「父上が母上のことをそういうとは思いませんでした…」
「僕は嫌いな人間を側においたりはしないよ」
「本当に?」
「そんなもんだよ」


置いていた筆を執る。仕事を再開した陸遜を見て、
陸抗は「ちゃんと伝えておかないと愛想尽かされますよ」と言って去った。
やっぱり息子はわかっていない。そんなことしなくても妻は去っていかない。
君をもらうために僕は名をあげた。僕は裏切ることはない。去ることもない。
それがわかっているから今までも、これからも、側にいてくれるのだろう?