増える混乱


深夜徘徊するひとりの影が見える。
その影はどうやらこちらに気付いたようで足早にこちらへ接近してくる。
様子からして武器を持っていないようだし、殺気を感じるわけでもないから
きっと知り合いだろうと、その影をぼんやりと見ていた。
月明かりも少ない中、やっと見えた正体は、どうやら
 

「桓、どうして?」
「いや、徘徊しているあなたも意味がわからないんですが」


いや、僕は、と言いかけて陸遜は黙った。


「そうだ、暇?」
「どうしてそういうことになるんですか。明日も仕事でしょう?」
「そんなことが気になるなら明日の仕事は休みにする」
「…暇です」
「じゃあしばらく話を聞いて」


陸遜はおもむろに孫桓の横に腰掛けて、孫桓にも座るよう促す。
仕方なく座ると、うっすらと湿気で湿っていたようで尻のあたりがひんやりとした。
ちらり、と横を窺い見ると、陸遜は非常に難しそうな顔をしていた。
早く話始めないかなぁ、と明日のことを思って孫桓は目をそらした。


「…然から、香油をもらった」
「よかったですね」
「良くない。謝罪の文書までもらった。意味がわからない」
「陸遜どのが何かしたんじゃないんですか」
「…然は、僕が桓を好きだと勘違いしてるみたいなんだよ」
「…もしそうだとしたら両想いですね」
「どうしよう…」


あ、俺の言うことなんて耳に入っていない。

それはともかく、陸遜がこんなに悩んでいるのは初めて見た。
前の戦で味方から信頼を得られず苦戦しているときでさえ、にたにたと笑っているだけだったのに
。 陸遜でも人の子である。そんな姿を見るのは自分がはじめてであるのか、それとも違う誰かは
たくさん見ているのか。真剣な表情を見るのは、とりあえずはじめてだった。
今まですぐに表情に出ていたのは自分の感情を他人にわかりやすくするため。
周りとの付き合いを円滑にするための策略。結局それが本当かはわからない。
付き合いが長くなれば長くなるほど、陸遜の表情は変わりにくくなった。
結局陸遜の表情から読み取れることなど、ほとんどないのだ。
だが、しかし、今は違うと思う。長年の感覚がそう訴える。

わかったとしても、陸遜は自分のいうことなど聞かないだろけれど。


「僕は…然のこと以外はよくわかっているつもりだ。
 けれど、然の考えることだけは、どうしてもわからない!
 どうして僕が桓を好きだということになるわけ!
 毎日毎日会いたい話したいと思っているのは然だけ!
 それはこれからも変わらない!変わらないけど…」


そう言い切ると陸遜は頭を抱えて沈み込んだ。
どう慰めていいのやら、孫桓の目は宙をさまよった。
陸遜は、自分がいなかったらひとりでこの夜の中考え続けたのだろうか。
夜が明けたら悶々とした感情を押し殺しても朱然に話し掛けるのだろうか。
それほど気持ちが強いというのか。悲しいというより、感心の方が強い。
そして胸がずきずきと痛んだ。それが、どうして、俺じゃないんだろう。
対象が朱然でなく自分なら、今すぐ抱きしめてやるのに。体中がそれで震えそうだ。


「陸遜どの…あの、」
「黙れ桓。聞いてとは言ったが意見しろとは言ってない。これは相談じゃない」
「どうしてそう強情なんですか」
「咄嗟にいい意見なんて言えないだろ?」
「お見通しですか」
「いい考えがでるなら僕が悩んでいるわけがない」


陸遜はにっこりと笑った。確かに、そうかもしれないが。
代わりに孫桓の顔が歪んでしまった。どうして自分じゃないのか。


「俺が願い事叶えます。義封とは縁を切ります」
「それを僕が慰めるわけだな。そんな策は使えない」
「どうして?」
「そしたら僕と然が両想いになるだろう?」
「思い通りじゃないですか」
「桓はどうする?僕のことが好きなんだろう?」
「え?」
「それにそんな策がうまくいくとは思えないし」
「あの、陸遜どの…」
「なに?」


おそるおそる、孫桓は陸遜に問う。


「どこから、俺が陸遜どのを好きとか…」
「そんなこと最初から知ってる」


僕がわからないのは然のことだけだよ。
さきほど聞いたような言葉を繰り返す。
陸遜は立ち上がり、聞いてくれてありがとう、と言った。
それから、孫桓の頭をぽんぽんと撫でて、桓のことも好きだよ、と言う。


これから俺に、どうしろっていうんだろう、この人は。