愛弟子


私を呼ぶ あの方の声は
とてもとても 甘かった。




書庫の前を通ると、大変大きな音が歩いている廊下まで響いてきて、
見知った人間の悲鳴が聞こえたため、中の様子をそろりと覗く。
そこには陸遜が書物と棚に埋もれている光景広がっていた。
もぞもぞと這いあがってくるその姿は、大層面白かったが、
当の本人はそれどころではないようである。
肩で生きをしながら、頬を真っ赤にしてこちらを睨んでくる。


「見ていないで、助けてください」
「それが人に物を頼む態度か?」
「…甘寧どのぉ」


わかっていて、こういう甘え方をする軍師。
甘寧はその甘え声に負けて、陸遜を引っ張り出した。
救出されると、さっきまでの愛らしい表情は一変し、
甘寧の腕を乱暴に払った。酷い。


「ありがとうございましたー」
「おまえ、そのうち友人なくすぞ」
「あなた以外にこんなことはしてませんから安心してください」


にこっと微笑むと、陸遜は棚を戻し始めた。
書物は無惨にもあちらこちらへと散らばって、片付けるにはとても時間がかかるだろう。


「片付け、手伝ってやんねーぞ」
「結構です。甘寧殿に任せると、片付くものも片付きません」
「何だとこのやろっ」


後ろから羽交い絞めにすると、痛いとわめきつつも、何だか嬉しそうである。
結局は陸遜も甘寧と戯れるのが好きなのだ。
だからこそ甘寧も愛想を尽かさずやってこれているわけだが。


「あーもー、離して下さい!」
「降参か?」
「また今度お詫びします」


するりと腕を抜けると、「訂正はしません」と笑う。
また捕まえてやろうとすると、書物を顔面に命中させられ、痛みで甘寧はうずくまった。
陸遜は心底楽しそうな声を上げる。
仕方なくそのまま座って、陸遜が片付けるところを見守ることにした。


「陸遜、あのさあ」
「何ですか」
「おまえ、凌統とどうなの?」
「あなたには関係ないでしょう」
「うん、ないけど」


陸遜のてきぱき動くさまと、目の前に動く尻を見ていたら
何だか邪魔をしたくなったので、手を出した。
陸遜が驚いてこちらを振り返る。


「訴えますよ!」
「うわー」


陸遜は甘寧の手を蹴り上げて、ぷいとそっぽを向いた。
やれやれ、どうして俺にはこうなのか。


「凌統はおまえのどこがいいんだろうなー」
「甘寧殿に私の魅力がわからないだけです」
「黙ってれば可愛いけどな。生意気しか言わねぇじゃん」
「あなたにだけです」
「おっさんも苦労しただろーな。おまえみたいなのが部下で」


てきぱきと動いていた陸遜の手が止まる。
甘寧が顔を上げると、その横顔はとても冷たかった。


「どうした」
「…そう思いますか」


呂蒙の話になると、陸遜はとたんに暗くなる。
それはどうしてだかわからない。いつも甘寧は疑問だった。
陸遜が大好きだった彼の上司。甘寧の友人。今はもう亡き人間だが。
死んで悲しくないわけではない。だが、乗り越えなければならない。
しかし、いつも陸遜は呂蒙の話を避けたがる。


陸遜が振り返った。


「甘寧殿、私は呂蒙殿のようにはなれません」
「…一体どうしたってんだ」
「あのように落ち着いた軍師にはなれません。威厳もないし、まだまだ青いです」


「自信がありません」


「まだ教えてもらいたいことが沢山あったというのに」
「…おまえ」
「甘い、と言いますか」


陸遜は顰め面のまま、棚に向きなおった。
一冊一冊をしまっていく。動作は先ほどより鈍い。


「陸遜」
「…」
「おまえ、おっさんのこと大好きだったもんな」
「…」
「凌統なんか比べもんになんねーくらい、まだ好きなんだろ」
「…」
「立ち直れねぇんだろ」
「…あなたに 何が わかるって いうんですか !」


陸遜は書庫から飛び出した。
憧れも恋慕も忘れられず、逃げた陸遜は、まだ泣く。
凌統なんかに追いつけるわけがないと思う。


「しっかしまぁ…これ俺が片付けんのか?」


床には沢山の書物が散らばったままだ。