君の匂い


前方から、見知った顔が走ってくる。

陸遜だ。

その姿をそれと確認できたのは、もうすぐに手が届く位置にきてからだ。
まず、と朱然は咄嗟に避けようとしたのだが、考え虚しく、陸遜に朱然は捕まってしまった。


「然!久しぶりですね!」
「昨日も会ったでしょう…」
「昨日会ったのは早朝です。今は夕刻。もう一日も会っていません!」


やれやれ、と朱然は肩を落とした。
このひとつ年下の上司は多少甘え癖がある。
振り払おうとしてもびくともしない。自分より力が強いのだ。
おまけに頭もいいときたものだ。厄介である。
この粘り強さを戦で発揮すればいいのに…といつも思うが、
戦になると、きちんと発揮するのだから皮肉ひとつ言えやしない。
すごく頼りになる。尊敬している。

だが、一旦私生活に戻るとただの甘えっ子だ。
こうな疲れていると弟のような錯覚を覚える。
とてもじゃないが上司とは思えない。
しかし朱然は、そんな陸遜がとても親しみやすく好きだった。

陸遜は朱然に抱きついたまま話をはじめる。


「然の髪はいい匂いがします」
「香油の匂いでしょう」
「それにしてもさらさらだ。僕の髪と比べたら」


ようやく陸遜は朱然から身を引いた。
代わりに自身の髪を触っている。不満げに。


「痛んでいる。はねるし。変な色だ」
「栄養不足でしょう。痛みは。伯言どのは戦になると、途端に不衛生になります」
「そうかな。忙しいから仕方がないんだ」
「跳ね髪は治らないでしょうが、梳けば少しは」
「面倒だ」
「色は…そのうち皆白くなりましょう」


陸遜はそれについては、はは、と笑っただけだった。


「然の髪はどうしてそんな匂いがするのかな」
「香油ですよ。結うときに使うのです。叔武どのも使っておられます」


陸遜の顔が、少し、歪んだ気がした。


「…僕も使おうかな」
「伯言どのは結う必要がございませんでしょう?」
「…」
「それに、叔武どのの方が髪は綺麗ですよ」


陸遜の顔はあきらかに怒りを浮かべていた。
何か、気に障ることを言ったのであろうか。


「然は…桓が好きなのか…?」


思いも寄らない言葉である。何故そうなるのか。
朱然は慌てて、そういうつもりでは、と弁解した、が。

まさか陸遜は

陸遜はもういい、と踵を返し、足早にその場を立ち去った。


不可解な出来事。
立ち去る陸遜の後ろ姿を見ながら、朱然は呆然とその場に立ち尽くしていた。


まさか、伯言どのは


叔武どのが好き


だから孫桓とおそろいの香油を気にした、
髪質を妬んだ

いくらでも考えはつく。


叔武どのは伯言どのが好き。
伯言どのは叔武どのが好き。
自分が立ち入る隙など、どこにもない。


ただそれだけで怒ってしまう、弟のような陸遜。
陸遜が好きな孫桓。
すでに失恋した私。


ふと気付くと頬を涙が伝っている。
憎めない二人とも。憎悪が自分だけに沸き、膨れ上がる。


すぐに違う香油を頼んだ。余っていたものは恋慕と共に捨てた。
謝罪をしたためた文書と共に、元使っていた新品の香油を陸遜に届けさせた。
これで充分だ。

失恋の悲しみだけはまだ心を痛め続ける。
どうせ一生治まらないだろうが。